わが北鎌尾根、剱岳よ おちこちの山   楽山社

第1部 北鎌讃歌

ありし日の北鎌尾根
                        坪山 晃三

   遭難碑

 槍の北鎌尾根は、北アルプスの数ある縦走路中、前穂高の北尾根
や、剱の北方主稜と並ぶ一級の難コースとされている。
 昭和六十三年の夏は、わが山のグループが北鎌尾根に挑戦し、そ
の主力は苦闘を重ねた末、見事この踏破を成し遂げている。
 この実績は、我われ登山隊にとってまことに素晴らしい快挙である。
 だが、私はアプローチ段階での思わぬ事故により、”保護者”付
きでグループから離脱するという破目に陥り、久々の北鎌との再会
もあとに持ち越すことになってしまった。
 かつて、私は一度だけ北鎌尾根をやっているが、それは昭和三十
五年九月中旬のことで、それからは、すでに三十年程の歳月がすぎ
ている。

 当時、私の山歴は約七年、それまでに日光の山々、白馬岳周辺、
八ヶ岳、丹沢の沢筋、谷川岳、甲斐駒岳、鳳凰三山、鋸岳、剱岳、
穂高の連山などの一般コースを経験していた。
 北鎌へは特に自信もないまま、単独で入山したが、今となっては
何でこのルートの単独行を試みたのか全く覚えていない。
 また、この山行きについては、すでに一連の流れとして思い出す
ことが出来ず、ところどころの情景や厳しさが断片的に記憶に残っ
ている程度である。
 この時のアプローチは、もちろん高瀬川ルートであったが、当時
はまだ、川筋のダムなども着工さえされていなかった。
 あの山行きを振り返ってみて、まず最初に思い出すのは、変化の
ない炎天下の川筋を遡りつつ、繰り返し、繰り返し自分の山行きに
ついて自問していたことである。
 それは、「果たして自分は本当に好きで山行きを続けているのだ
ろうか」「単なる見栄などのため、自分に暗示をかけているのでは
ないか」などというものであった。
 もちろん、こんな”たわごと”に結論が出るわけはなく、この時
もいつの間にか頭から消え去ってしまっている。
 初日の宿泊地は、当然、湯俣であったはずだが、その辺のことは
全く思い出せず、わずか途中に湯けむりの出ている場所があったこ
とを覚えている程度である。
 湯俣から千天出合(センテンデアイ)までは、その当時、今のような岩壁のヘッツリ
や、熊笹の中でのルート探しの苦労もなく、道もはっきりしていて
気楽に歩けたような気がする。年月とともにコースが荒れてしまっ
たのだと思う。
 北鎌沢出合まで辿りつくと、そこには真新しい木製の「専大生遭
難碑」が立っていた。
 それは唯でさえ心細い単独行の私に、前途への不安と緊張感を高
めさせた。

  進退極まる

 その後の北鎌沢の登りや北鎌の尾根道については、殆んど記憶し
ていないが、独標(ドッピョウ)のコルに到着すると、トラバースの入口付近に
きちんと積まれた米袋や缶詰などの山が目についた。
 初め私は「遭難者が残した食料なのだろうか」などと思ってみた
が、自らトラバースに足を踏み入れてみてその意味がよく理解でき
た。これらの食料は、トラバースが相当厳しいので、荷を軽くする
ため、ここを通過した人達が残していったものなのである。私も先
人に習って、米袋といくつかの缶詰をそこにのこしてルートに入っ
て行った。
 たしかに、このトラバースは足場が悪く、行くも戻るも進退極ま
るという場所もあり、額に油汗がにじんだことをはっきりと覚えて
いる。
 また、やっとトラバースを通過したところには、オーバーハング
状の大きな岩が覆いかぶさり、その下は二尺余りの幅で谷底までス
パッと切れ落ちていた。
 そこからは、はるか千丈沢の河原も見下ろせ、かなりの恐怖感を
抱かせる場所であった。
 私は重いザックを背負ったままそこを渡ることをためらい、荷を
下してロープで腰に繋ぎ、まず自分の身体だけで向う側に渡った。
そして、ロープをたぐってザックを引き上げたが、その時は余計な
カメラなどをそこに残すことも考えた程であった。
 この一帯のルートは、それまでの山行きの中で最も緊張するもの
であったような気がする。
 しかし、このオーバーハングも、その後、千丈沢に落下してなく
なってしまい、今ではルートも変更されて歩き易くなったと聞いて
いる。
 間もなく着いた独標の頂上では、目の前にそびえる槍の勇姿を満
喫したが、次第にガスが出始め、歩き出した時には全面ガスに覆わ
れていた。小一時間も歩くうち、完全に方向を失い、私の行く手、
行く手はすべて断崖に阻まれるという状態となってしまった。
 私は「これ以上さまよったら危い」と判断し、止むなく予定を変
えて、その場でビバークすることにした。
 その辺りはやせ尾根で足場も悪く、やっとくぼみを見つけてシュ
ラフを拡げ、その両端にロープを通して岩角に結びつけた。
 ガスは一向に晴れないまま夜を迎え、寒さの中でシュラフにもぐ
り込んだが、眠りにつく間、「こんなところまでは熊も来ないだろ
うな」などとの思いが頭をかすめていた。
 何時間かして、底冷えする寒さで眠りをさますと、空一面に星が
輝き、丸い月も山々を照していた。
 驚いたことに、右手方向にあるとばかり思っていた槍ガ岳が九十
度以上も左の方に姿を見せていたのだ。
 この時ほど、迷った時の身の処し方について考えさせられたこと
はない。
 夜明けまでには、まだ時間があったが、寒さのあまり早々に身支
度をととのえ、一夜の岩床に別れを告げ、槍に向って出発した。
 歩き出してみて、ビバークした場所がルートから大きく外れた支
稜であったこともわかり、あらためて無事であったことに胸をなで
下した。

  一人立つ頂上

 ルートに戻ってからは、岩肌の冷い感触を一つひとつ手で味わい
ながら、稜線の漫歩のような気分で槍の登り口まで辿りついた。
 わが仲間は、この辺り、北鎌平周辺も暗闇の中のルートファイン
ディングのため仲々厳しかったと話している。このルートが、その
後大きく変ったとは考えられないので、私の場合、年月の経過がき
つさや厳しさを忘れさせてしまったのだろう。
 あとは槍の登りを残すのみであったが、急峻な岸壁は、とても私
を受け付けてくれないような感じであった。
 ところが、取り付いてみると、このルートは階段状をなし、特に
苦労もなく、槍の頂上にとび出してしまった。
 その時は、すでに大分明るくなっていたが、頂上にはいまだ人の
姿は全くなく、まさに私一人の天下であった。
 槍に登った人は数限りないが、ただ一人その頂上に立った経験を
もつ人は極く稀ではないだろうか。
 その意味でも、かつての北鎌尾根単独行は私にとって想い出深い
若き日のよき山旅であった。
 今度こそは、この北鎌との再会を果し、ありし日の検証をしてみ
たいと思っている。               <会社役員>
                     (昭和六十三年秋)