わが北鎌尾根、剱岳よ おちこちの山   楽山社

第1部 北鎌讃歌

   北鎌、女ひとり
                        坪山 淑子

 「槍ガ岳」、−−なんと神秘的な響きでしょう。
 幾多の若い命をその偉大な山ふところの中に包みかくしてしまっ
ても、今なお多くの人びとの心を魅了しつづけている「槍ガ岳」。
そんな槍ガ岳の奥の院・北鎌尾根の登ろうと決めたのは一昨年の夏
です。
 綿密な計画と情報収集に約一年間を費しました。
 そして、私達が得たものは、北鎌尾根には僅かながら踏みあとが
出来ているらしい事。ルートではないが、アプローチとして貧乏沢
が使えそうな事。女性の力でも、どうにか登れそうな事、などなど。
 北鎌登攀(はん)にうれしい材料が次々と出揃いました。
 心浮きたつ日が続きます。
 そして、男3名、女2名の実年パーティーは、意を決してとうと
う、昨年夏、二十三時二十分、新宿を後にしました。
 ぬけるような青空のもと、中房温泉から合戦小屋、燕岳へと進み、
いつしかみんなの背中はしっとりと汗ばんできます。そんな私達を
笑顔で迎えてくれたのは、淡く可憐なこまくさや、風にゆれるみや
まりんどう達です。
 その夜は大天井ヒュッテに宿をとりました。
 明日はいよいよ憧れの北鎌尾根に登るのかと思うと、皆んなとの
会話も知らず知らずのうちに声高になります。
 「明日は早出です、今のうちに充分休んでおきましょう」
 まどろみの中で、静かに窓をたゝく雨の音や、木々を揺する風の
ささやきを聞きながら、いつしか深いねむりの中に落ちてゆきまし
た。

  次もある・・・・天上沢を詰めて

 朝四時、まだ夜は明けていません。
 昨日見たあの青いハイマツの峰々は、今は姿を変えて、黒く厚く
山小屋におゝいかぶさる様に迫って来ています。
 雨はまだ静かに降りつづけています。
 昨日までのあの幸福の女神は、一体どこへ行ってしまったので
しょう。
 いつまでも私達に、ほゝえんでくれませんでした。
 出発予定の五時になってもリーダーはGOサインを出してくれま
せん。
 もうこれ以上待てません、六時、天を仰ぎつつやっと出発のサイ
ンが出ました。
 私達は祈る様な思いで、足速やに大天井ヒュッテを後にしました。
 まだ小雨が降ったり止んだりの不安定な天気の中、まず、貧乏沢
に向かいます。
 この沢はハイマツやだけかんば、ななかまど等の灌木に被われて
道らしいものは殆どなく、歩きにくい事、この上なしです。
 倒木が往く手をさえぎり、草付きの急斜面が身を震わせます。
 でも途中、思いもかけず牛首山から流れ落ちる大きな滝ともめぐ
り会い、しばし疲れを癒す一幕もありました。

 天上沢まで下りきった時には、すでに、時計の針は九時を指して
います。
 この頃になると、夜来の雨も止んで時折り、晴れ間さえ覗く様に
なりました。
 右手には槍に連なる北鎌尾根が雄々しく輝いているではありませ
んか。全員、感激の声を上げました。しかし、これから北鎌へア
タックするには、少々時間が遅すぎます。
 出発の時間を遅らせた事が、今になって悔やまれました。
 誰かが言っています。「北鎌を一回で成功しようと思わない方が
いいのではないか。来年もあるじゃないの・・・・。」と。
 私達は北鎌への思いを胸中深くしまい込んで、天上沢登はんへと
きびすを返しました。
 何の変哲もなく見えた天上沢でしたが、上部に行くに従い、急峻
なザレ場になっていました。
 靴は砂の中にうずまり、足場の確保が思いの外、困難をきわめま
した。
 キックステップで慎重に登っては見ても、ズルズルずり落ちてな
かなか思い通りには登れません。
 所々、小さな岩が砂の中から頭を出しているのですが、これさえ
も握ってみるとパラリとくだけてしまうのです。
 私は先人の言った「馬の四ッ足、鹿も四ッ足」を思い出しました。
しかし、あまりにも急峻なザレ場のため、四ッ足をもってしても、
私の体重をさゝえる事は出来ませんでした。
 そしてとうとう私は、みっともない姿で滑落してしまったのです。
 ケガは殆どありませんでしたが、私の心の中に「恐怖心」という
重いおみやげが残されてしまいました。それからというもの、自分
でも驚く程慎重になってしまいました。
 天上沢を越えてやっと水俣乗越にたどりついた時には、さぞかし、
顔はひきつっていた事でしょう。
 あとはお決まりのコースです。槍から大キレット、北鎌、涸沢と
回って上高地へ下山しました。
   ×   ×
 それから一年、更に多くの情報を入手して今年の夏も再度、北鎌
へチャレンジしました。

 今度は七倉、湯俣ルートからの入山です。ここはアプローチの長
さで登山者から嫌われている所ですが、篠宮マネージャーの御尽力
により東電のマイクロバスに乗せていたゞきました。
 バスに乗り込んだのは、マネージャー親子、相田さん、私達夫婦
の五名です。
 七倉から山合いの谷間をぬけ、碧く水をたたえた高瀬ダムを左手
に見て、バスはさらに上部の第五発電所まで私達を運んでくれまし
た。
 途中、大阪のアルピニスト・原田嬢を拾う事も忘れてはいません。
 これで総勢六名の北鎌アタック隊の大集合です。
 天候は、こゝ数日安定しそうだし、身支度も整い、足取りも軽や
かに「いざ出陣」です。
 初めは林の中に付けられた細くなだらかな道を行きます。
 右手には高瀬川が白い水しぶきを上げ、音をたてて流れています。
 広い河原の小石一つ一つが私達に微笑みかけています。「キタカ
マへ行くんだね」と。
 さわやかな汗が額を流れ落ちる頃、湯俣の晴嵐荘に着きました。
 ビールが乾いた咽を鳴らします。人の良さそうな宿番の老夫婦に
挨拶を交して小屋を後にした頃、陽は頭上高く登っていました。
 吊橋を渡って水俣川沿いに藪の中を行くと、道は次第に険しくな
ります。
 下草の生い茂った山道は、踏み跡がなかなか見つかりません。
所々に付けられた赤い布を目印に進むのですが、意外なほどアルバ
イトを強いられてしまいました。
 水俣川はごうごうと不気味な音を立てて、渦を巻いています。私
達は慎重に一歩一歩、歩を進めます。
 広く大きなスラブが私達の前に立ちはだかっています。そこには
赤いザイルが一本、往く手を暗示するかの様に下がっていました。
 先頭の主人は、何のためらいもなくそれを握りしめ、岩はだに身
を引き寄せます。
 しかし、手足を掛けるホールドが見当りません。冷く堅い岩壁は、
なおも頑くなに往く手を拒みつづけているのです。
 仕方なく主人は別のルートを探しました。右手に登れそうな所が
あります。そして、岩にはい登ろうとした瞬間、悲劇は起ったので
す。

 主人の身体に何かが起こったのです。顔面はみるみる蒼白になり
ました。
 しかし、すぐそばに居たにも拘ず、私達は何も気付きませんでし
た。後で分かった事ですが、肋骨の一部がはずれてしまったのです。
主人は何事もなかったかの様に、冷静に歩き始めました。体を痛め
た主人の手は、すでに力を入れる事が出来なくなっていたのです。
 このルートの中には、ザイルを使う所が幾つもあります。
 しかし体をさゝえるために握っていなければならないザイルさえ、
放してしまう有様です。異常に気付いた私はハラハラドキドキで、
もう、居ても立ってもいられません。足元の激流の中へ落ちては命
さえも危ぶまれます。
 この様な体では、北鎌へ登れる筈のない事を主人は悟りました。
 その夜は天上沢河原でビバークをしました。
 主人はアタック隊とは別行動を取る事を、密かに決意していた様
です。
 私はこのけが人と行動を共にする事を余儀なくされました。二年
間、待ちに待った北鎌は、又もや私から遠ざかって行くのでした。
もうすぐ北鎌に会えるというのに。じわじわっと熱いものがこみ上
げて来ます。でも、今は泣いてなんかいられません。明日はどう
やってこのケガ人を、大天井のヒュッテまで上げたら良いのか決め
なければならないからです。

  ふたたび無念の撤退

 貧乏沢を登るのが良いか、水俣乗越を越えたら良いか思案に暮れ
るところです。
 昨年、水俣乗越のザレ場で私は手痛い仕打ちを受けていましたの
で、貧乏沢を登る事にしました。
 主人の重そうな荷物は、総て、私のザックに移しました。ザイル
も準備しました。
「万一、主人が歩けなくなった場合、これで引っぱり上げよう」な
んて考えていたのです。
 翌朝、重い心で目が覚めました。天気は快晴です。この青空がう
らめしくもありました。アタック隊の四人の姿が見えなくなるまで
見送りました。
「今からでも駆け出して行けば、アタック隊の仲間に入れる」そん
な衝動にもかられました。でも、でもでも・・・・。
 アタック隊と別れて、ケガ人との貧乏沢「弥次喜多登はん」の始
まりです。
 当初思っていたよりもはるかにスムーズに進んで、何事もなく中
腹まで登る事が出来ました。冷たい岩に腰を下して飲む滝の水は
「桃源郷の世界みたい」などと、悦に入ってみたりもしていました。
 しかし、またもや不幸の女神が私達にとりついたようです。途中
でルートを間違えてしまったらしいのです。
 浮石が激しく、一歩登るごとに大人の頭程の赤い岩がガラガラと
くずれ落ちるのです。静かに注意しながら登っても、もうこれ以上
は登れません。
 右手脇に草付きのところがあります。とりあえず、そこに逃げ込
みました。しかし、ここさえも見た目以上に急峻なところで、四つ
んばいにならなければ登れません。
 上部に明るいコルが見えます。なんとか、あそこまで行けば・・・・、
そうすれば表銀座コースに出られる筈です。
 今、弱音をはいたら、折角、ここまで登って来たのに、又、この
沢を下らなければなりません。下ればビバークは必至です。食糧は
あと一日分しか残っていません。
 私は重いザックとケガ人をそこに残して、一人、ルート探しに出
かけました。お互い声を掛け合って迷子にならない様な配慮もしま
した。
 しかし、谷間での「ヤッホー」の呼びかけは、こだまばかりで、
あまり役に立ちませんでした。
 一時間も探したでしょうか。人の踏み跡らしいものがあります。
 私は用心深く忠実に辿ってゆきました。遠くに見えていたコルが
だんだん近く、明るくなるではありませんか。私は小躍りしました。
 幻のボッカ道を見つけたのです。
「生還出来る」本当にそう思いました。
 ようやく、私達は事なきを得て、大天井の小屋まで辿りつく事が
出来たのです。

 今夜はビバークでは味わえない温かい布団にもぐり込んで、手も
足も存分に伸ばす事が出来ます。
 北鎌アタック隊とは、その後、なかなか連絡が取れません。
 もう、槍の肩の小屋に付いていていい筈なのに、・・・・・・、夕闇が
せまり、夜のとばりを下す頃になっても、まだ、山小屋に着いてい
ないのです。不安のみが交錯します。
 やっと雪来君と連絡が取れたのは、翌朝になってからの事です。
「他の仲間は、まだ山の中」との情報に、一抹、いや十抹の不安が
よぎりました。しかし、「あの仲間なら、きっと槍まで登りきるだ
ろう」そう自分に言い聞かせていました。
 今朝は、一きわ真白な雲海が湧き立ち、夏空はどこまでも青く澄
んでいます。
 槍も、北鎌も、西鎌も、穂高も、遠く剱さえも見わたす事が出来
ます。
 ケガ人連れの私は、肩にくい込むザックを何度か揺すり上げなが
ら、ただひたすら、燕岳目指して歩きました。
 道すじ、私は決して槍へ振り返る事はしませんでした。だって、
北鎌を見たら泣けてしまう事が判っていましたから。私を二度まで
も拒みつづけた北鎌は、もう見たくありませんでした。青春に別れ
を告げるかの様に、私は「さようなら」と北鎌に別れを告げたので
す。
 その夜は燕岳から下山して、有明温泉で宿を取り、アタック隊が
成功裡に終わった事を知りました。
 立ち昇る温泉の湯気のむこうで、北鎌登はんの仲間が笑っていま
す。「とうとう北鎌をやったよ」と。一人取り残された私は、ぬぐ
ってもぬぐっても、涙がこみ上げてくるのでした。
 夕食で飲んだビールさえ、にがく味気ないものでした。この胸の
想いを、どう鎮めたら良いのでしょう・・・・・・
   ×    ×
 それからというもの、私は昼も夜も、あたかも夢にうなされた赤
子の様に、北鎌への想いを馳せる毎日でした。

  三度目 女ひとりの戦い

 あれから、まだ、二週間しか経っていないというのに、私は再々
度、北鎌へチャレンジしたのです。それも女一人で・・・・。
 テレビは大型台風十八号の関東地方接近をあわただしく報じてい
ます。そんな風雨の中、多勢の見送りを受けて一人、新宿駅を発ち
ました。
 朝四時、穂高駅に降り立つと、まるで嘘の様に雨は上っていまし
た。明けの明星だけが暗い夜空に一つ、寂しげに光っています。
 当初予定していた中房温泉への道は、長雨による崖くずれのため、
バス、タクシーは通行不能になっていました。私は止むなく、常念
岳を経由して大天井まで行く事にしたのです。
 途中、小雨の洗礼は受けましたが、山ではそんな事は当り前です。
何でもありません。
 雷鳥の家族にも出迎えを受けました。
 冬支度なのでしょう。私が近寄っても逃げようともせず、カラカ
ラに干からびた草花の実を、必死についばんでいます。
 もう、内側の羽根が白くなり始めていました。
 明日はいよいよあの貧乏沢を下るのです。
 二週間前、あれ程までに私達を困らせた沢なので、密かに私は一
つの企みをもっていました。
 それは沢の要所要所に目印用の赤い布を付ける事です。そして、
邪魔な枝葉は切り落として、はっきりとした新ルートにする事です。
 赤布を五十本用意しました。
 枝を切り落とすための植木バサミも、ザックに忍ばせてあります。
でも、この計画は作業が終るまで、誰にも明かさずにおこうと心に
決めていました。特に、山小屋のおやじさんには知られたくありま
せんでした。話せば、きっと止められるに違いありません。
 翌日は晴天とは言えないまでも、雨の気配のないまずまずの天気
になりました。私は不安と期待の入り混った想いで小屋を後にした
のです。
 貧乏沢はあくまでも穏やかで、河原の大きなはちまき石や、苔で
ぬるぬるすべる石までも、心よく私を迎え入れてくれました。
 降りつづいた雨のせいで、水かさは少しだけ増していましたが、
私の小さな企てに反逆するものはいませんでした。
 やっと天上沢との出合いに着いてケルンを積み直しました。そし
て、今までよりずっと大きなケルンにしました。「ここが貧乏沢入
口ですよ」と判るように・・・・。
 私の手元には六本の赤い布が残りました。沢の入口に付けた最後
の布がヒラヒラと、風にはためいています。
 これまで私を苦しめてきたこの沢が、今では私の一番好きな沢に
変わったのですから、不思議なものです。
 天上沢の熱く焼けた河原の石に腰を下して、エスビットに火を付
けました。一人、カップラーメンの昼食です。ゆっくり、ゆっくり
スープをすすりました。
夏雲がふんわりと浮かんでいます。
「この沢をトシ子沢と命名できたらいいなあ・・・・」そんな考えが頭
をよぎります。
 この広い広い天上沢の河原に、私一人だけが居るのです。私がこ
の大自然の支配者になったみたいです。
 今日はこの河原でビバークの予定ですから、何も急ぐ必要はあり
ません。
 残った赤布六本と植木バサミは、河原の石と石のすき間にそっと
埋めました。「私の記念の品として永久に残しておこう・・・・」
 さき程まで荒れ狂った様に流れていた筈の沢の水までが、今は静
かに流れを変えています。何もかも、私の思い通りになりそうな、
そんな予感がしてきました。明日はいよいよ、念願の北鎌アタック
です。この分ならきっと、うまくいくでしょう。
 午後一時、私はおもむろに腰を上げました。この河原でビバーク
するにはあまりにも時間が早すぎます。
 ポリタンクに十分水を満たして、私は河原を歩き始めました。そ
して、とうとう、北鎌沢出合から、北鎌沢へと足を踏み入れてしま
いました。

  北鎌沢、星の国のお姫様

 幼な児がはしゃぎながら石けりをする様に、子雀が岩の上をピョ
ンピョンと飛び歩く様に、いつか聞いた事がある様なメロディがど
こかから流れてきます。
 胸がときめいて、足が踊ります。心が踊ります。
 このはやる心を押さえる事は、神様だって出来やしません。
 沢の中程まで一気に登って行くと、それまで流れていた水が急に
覆水となってしまいました。
 左手には大きな石のほこらがあります。まるで、私が今日ここま
で来る事を知っていて、待っていてくれたみたいです。
 あたり一面、紫色のとりかぶとが咲き乱れています。
 今夜はここでビバークする事にしましょう。小石を敷きつめて寝
床を作りましたが、少しデコボコして、背中が痛そうです。
 岩の割れ目から、数ヶ所絶え間なく雫が落ちてきます。ツェルト
を張るのは初めてなので少しダブついて、そのたるみに雫が集まっ
ています。でも、そんな事はちっとも気になりません。
 ビバークの準備は総て整いました。あとは明朝、誰よりも早く起
きて、一番乗りで出発する事です。この山の中にいるのは、今は私
一人ですが、きっと誰かが、私と同じ想いの誰かが来る筈です。
「北鎌でルートをはずしたら、後続の人に教えてもらおう・・・・」
 私にはそんな甘い考えがチラホラしています。
 やがて、陽は山の彼方に沈み、代りに、おそろしい程の静寂がこ
の世の総てを包み込みました。
 そして、星が一つ、二つとまたたき始めました。
「涸沢の星空が日本一」なんて言う人がいますが、あれは嘘です。
テントの中から見る北鎌沢の星空の方が、数倍も美しいのです。無
数の星屑が夜空一面に散りばめられて、きらめいています。
 私は、あたかも星の国のお姫様になった様な気分でした。(四十
路のお姫様なんて、居ませんわね)
 もし、許されるものならば、星の国の王様にお願いします。
「娘へのおみやげに、星のネックレスを一連だけ、私に下さいませ
んか」
 夜は次第にふけてゆきました。

  朝の冷気が、優しく頬をなぜます。
 私は反射的に身を起こしました。
 夜はまだ、明けていませんが、微かに東の方が白んでいる様にも
見えます。
 ブルブルッと身震いします。
 寒さのせいだけではない筈です。
 北鎌アタックへの武者ぶるいなのでしょうか。
 小ぬか雨が音もなく降っています。
 食欲は殆どありませんでした。
 チーズを一かけら、口へほうり込みます。
 コーンスープも温めましたが、なかなか咽を通りません。
 自分でも不思議な位、緊張しているのが分かります。

  写真と同じクラックがあった!

 朝五時、私は朝露を踏んで、ほこらを後にしました。
 一歩一歩沢を登ります。あくまでも慎重に歩を進めます。
 昨日までの歩きとは、まるで別人の様です。
 「北鎌の岩の一つ一つを体で覚えていたい」そんな想いなので
しょうか、それとも不安が極度に高まっているせいなのでしょうか。
 体が少し温まる頃、北鎌沢のコルに着きました。
 今朝からの緊張は、少しずつ和らぎ始めていました。
 尾根づたいにルートが見えます。
「天下の北鎌にルートがあるなんて・・・・・・」
 私は少しがっかりすると同時に、安堵の色も隠せませんでした。
 少しずつですが、いつもの自分に戻って来た様な気がします。
 幾つものピークの登り下りの後、独標が現われました。そうです。
あの独標が威丈高に構えているではありませんか。何度も何度も写
真で見たあの独標です。
 中腹をトラバースするルートも、千丈沢に落ち込む様なザレ場も、
右端に飛び出したあの岩も、クラックの一つ一つがみんな写真とお
んなじなんです。
 同じ事がとても不思議に思えてなりません。初めて来たところと
は、どうしても思えず、懐かしさを覚える程でした。そして、私は
吸い込まれる様に独標に足を踏み入れて行きました。あれ程恐いと
思っていたトラバースは、どうという事なく、あっ気なく過ぎてし
まいました。
 しかし、これだけではなかったのです。千丈沢側に垂直に口を開
けて待っていたチムニーは、私を容易に受け入れてくれません。
 そこにはザイルが一本、下っていました。自分の身一つなら、ザ
イルを頼りにどうにか登れるのですが、十キロのザックを背負うと、
女の私にはどうしても体を上げる事が出来ないのです。
 私の前にも後にも人の姿はなく、ここはもう、自分の力で登るし
かありません。息を大きく吸い込んで、私は岩に取りついてみまし
た。
 そこには、小さなホールドが少しあるだけで、靴のつま先しか掛
かりません。
 右手でザイルをしっかり握って、身体を確保します。
 私はシュリンゲで結んだザックを左手で持ち上げてみました。
 十キロのザックを片手で上げる事は容易に出来ません。代りに身
体が左右に振られてしまいます。仕方なく、シュリンゲを左手首に
巻きつけてみました。
 するとどうでしょう。五センチ、十センチとザックは上って来ま
した。
 五〜六回、腕に巻きつけたでしょうか。ザックは、やっと私の足
元まで上げる事が出来ました。
 こんな事をくり返して、どうにか、このチムニーを登りきる事が
出来たのです。
 大きな仕事を終えた後の様な心地良い疲労感が、体の中をふきぬ
けてゆきます。
 また、ガスが山の麓から昇って来ました。水蒸気をたっぷり含ん
だ霧は、雫のたれる程髪の毛を濡らします。
 私は小さな岩に腰を下して、熱いコーヒーをすすりました。一人
飲むコーヒーでも、こんなに美味しいとは・・・・冷えた身体には、何
よりの御馳走でした。そして、今、こうして北鎌の山ふところの中
に居られる事が、どれ程幸福な事なのか、家族の協力があればこそ
・・・・しみじみと感ぜずにはいられませんでした。
 千丈沢に落ち込む谷間では、猿の家族がたわむれています。
 先頭を行くのはきっとボス猿でしょう。集団から離れて周囲を警
戒しています。
 母親にしっかりとしがみついている小猿の何とも可愛らしい姿。
人間ではとても登れそうにない急なはい松の斜面を、ひょいひょい
と駆け登るやんちゃな小猿達。総勢二十頭程の猿の大家族の競演で
す。
 いつまでも猿達と遊んでいたい私でしたが先を急ぐ事にしましょ
う。
 独標を過ぎても槍の姿はなかなか現われません。
 「槍に向って行けば、ルートを踏みはずす事はない」、何度も主人
から教えられた事です。しかし、槍は一向に姿を見せようとはして
くれませんでした。
 天上沢側の急斜面のザレ場を横切る時も、北鎌平に向って、ひん
岩の岩場を登る時も、いつもガスの中に身をひそめているのでした。
 北鎌平に着いたのは二時頃だったでしょうか。
 振り返ると、霧の中に微かに北鎌の尾根が見えるだけです。
 いよいよ槍ガ岳への最後の登りに入ります。もうあと一息です。
 少しでも荷を軽くしておきたいので、ポリタンクの水を岩に返し
ました。
 大きな岩塊を踏んで、一気に高度を稼ぎます。

 二つ目のチムニーは幸い、苦労なく登る事が出来ました。
 次第に足の重さを感じる様になります。考えてみると、朝食も昼
食も殆ど食べていません。そんな事に思いをめぐらしていると、人
のざわついて気配がしました。久し振りに聞く人の声です。
「先行パーティーかしら」
 私は頭上を見上げました。
 何人かの人が、こちらを覗き込んでいます。
「そこは頂上ですか」、私は大声で尋ねてみました。
 すると、「槍の頂上だよ、頑張れ」、「女性が一人で登ってくる
ゾー」、そんな答えが返ってくると同時に、尾根に響くばかりの拍手
が鳴り出しました。
 見ず知らずの人達が、私の北鎌登攀を祝ってくれているのです。
 拍手は仲仲鳴り止みません。
 切り立った岩壁を私は用心深く登ります。
 最後の岩を乗り越えて、やっと槍に頂上に立ちました。
 山頂は二十名位の登山者であふれています。一段と拍手が高くな
り、私は熱いものが、ドッと込み上げてきました。
「やった、やった、とうとうやりました!」
 ”日本一難しい”といわれていた北鎌を、一人で踏破したのです。
 多くの人達の温かい眼差しが私を包んでいます。
 私は恥ずかしさのあまり、皆に背を向けて山頂の祠の前で手を合
わせました。
「私をここまで導いて下さって、本当にありがとうございました・・
・・・・・・・・」                   <会社役員>
                     (昭和六十三年夏)