わが北鎌尾根、剱岳よ おちこちの山   楽山社

第2部 劔岳鑽仰(サンギョウ)

   剱岳に魅せられて
                        坪山 晃三

 富山平野のはるか東、北アルプスの最深部にそびえ立つ剱岳、こ
の山は「岩と雪の殿堂」として知られ、山に親しむ多くの人々の憧
れの的となっている。
 剱岳の特色は何といっても、荒々しい岩稜と豊富な雪渓に象徴さ
れる独特の山容である。
 剱岳は日本で唯ひとつ、ヨーロッパアルプス的景観をもつ山とし
て、穂高連峰とともに近代登山の檜舞台となってきた。
 日本にも大きな岩壁をもつ山はほかにもあるが、その多くは森林
に覆われた山か、草原状の緩い山であって、その一部だけが岩場で
あるようなケースが多い。
 しかし、剱岳はどの方向からみても、岩と雪だけで形 造られ、
                       (カタチツク)
鋭角をなす峰をそそり立てた厳しい男性的な山である。
 それだけに、この山の登山の歴史も浅く、北アルプスの山々の中
では最後に登られている。
 古来、剱岳については、弘法大師が三千足のワラジを費しても、
なお頂上をきわめることが出来なかったという話が伝えられてきた。
 ところが、明治四十年七月、三角点建設のため、二年余りの歳月
をかけて長次郎雪渓からの登頂に成功した陸地測量部の柴崎芳太郎
らは、剱岳の頂上で驚くべきものを発見している。
 それは、長年月風雨にさらされた錫杖の頭と、長さ八寸余りのヤ
ジリであった。
 この錫杖の頭は、のちに平安時代のものと鑑定され、それまで人
跡未踏と信じられていた剱岳も、立山開山直後の頃には、すでに登
られていたものと推定されるようになった。
 しかし、誰がどのルートを辿って登ったのかは全くわかっていな
い。
 ただ、剱岳の場合は、立山のように信仰の対象としての登山では
なく、限られた行者たちの修行の場として密かに登られていたよう
である。
 この山が、いわゆる登山家によって初めて登られたのは、柴崎測
量隊による登頂の二年後、明治四十二年七月のことであった。
 その後、大正時代に入ってからは剱岳にも続々と登山者が押し寄
せ、多くのルートも開拓されて今日に至っている。

  初挑戦

 ところで、私が初めて剱岳に登ったのは昭和三十一年のことで、
この山とのかかわりもすでに三十年を越えている。
 初めて剱岳に入山した時は、学友四人のパーティーで、宇奈月温
泉から裏剱のコースを辿って山頂に向った。
 宇奈月の先、欅 平からは山中の隧道を走る関西電力のトロッコ
      (ケヤキダイラ)
に乗せてもらったが、これは昔そのままの上蓋式のものであった。
 私達も荷物と同様に扱われ、真っ暗い箱の中で揺られながら阿曽
原まで運ばれた懐かしい思い出がある。
 このトロッコも現在は、関西電力関係者の専用となり、一般の登
山者は乗せなくなっている。
 阿曽原からの仙人谷雪渓では、何度かカモシカに出合うなど、今
ではとても期待出来ないのどかさが残されていた。
 この谷を登り切った仙人峠では、突然、目の前に八ツ峰など裏剱
一帯の絶景が開け、その素晴らしさには唯々感嘆するのみであった。
 眼前には雪を抱いた険しい紫色の岩稜が連なり、足下にはその影
を見事に映した鏡のような池などもあって、まさに日本離れしたス
イス的光景であった。
 それからは、北俣を経て長大な剱沢雪渓、急峻な長次郎雪渓、ま
た頂上に至る峨々たる岩場などを辿って剱の頂きをきわめた。
 これらのコースはいずれも初体験であったため、ただがむしゃら
に挑んで剱岳の魅力を満喫した。
 この時は、いまだ貧乏学生の身であったため、アイゼンの準備も
出来ず、急な雪渓の登り下りにも、地下足袋にワラジ掛けという出
で立ちで臨んだが、こういう冒険も今となってはなつかしい若き日
の思い出である。

  剱岳のとりこに

 それから十三年を経た昭和四十四年、新たな山の仲間、白川さん、
篠宮さんとの山行きで、剱岳と再会し、以来二十回余りこの山に挑
んでいる。
 この間には、初回に登った長次郎雪渓のほか、ベテランコースと
されている平蔵雪渓、三ノ窓雪渓、小窓雪渓など、剱岳東面の谷筋
や、北アルプスの縦走路中、三大難コースの一つといわれる剱岳北
方主稜などもそれぞれ何回か踏破した。
 これら山行きの中では、もちろん失敗したこともある。その最大
のものは、ある年に長次郎雪渓を下った際、一寸した油断から二十
メートル程滑落し、深さ約三メートルのクレパスに落ち込んでし
まったことである。
 この時は、滑り出して間もなく完全に気を失い、雪の割れ目に転
落してから、篠宮さんの呼び声で意識を取り戻したが、滑落の途中、
それまでの山行きの情景が次々と走馬燈のように頭をかすめたこと
を覚えている。
 幸い、この事故では、右の足首を軽く捻挫した程度ですんだが、
恐怖感のあまり膝が硬直してしまい、それからは白川さんの肩を借
り真暗な雪渓を、恐る恐る下るという有様であった。
 また、別な年、雨をついて三ノ窓雪渓を目指した時には、途中、
近藤岩の岩蔭で、ほんの短時間豪雨をさけ、元のコースに戻ろうと
したところ、先刻まで足首程度の水量であった河原が腰の深さまで
激流が増水していた。
 このため、我々三人は互いにロープで身体をつなぎ、やっとの思
いでそこを脱出したという体験もしている。その時はあらためて谷
筋の増水の早さに驚かされたものである。
 さらに、北方主稜から小窓雪渓に至る急峻な谷筋を下った時には、
非常に濃いガスに包まれ、二メートル先も見えないという不気味な
状況下で悪戦苦闘を強いられたこともある。
 このほか、雪渓に消えた真砂沢の下りも中々の難儀であった。
 真砂沢は立山連山の稜線に近い内蔵助小屋のすぐ脇から、剱沢の
真砂沢ロッジに通じる急峻な谷である。
 案内書によると、この谷は「雪のない七月中旬以降の登降不能」
とされているが、私達は「問題なく降りられる」という小屋のオヤ
ジさんの言葉を信じて試みてみた。
 たしかに、その上部はさ程の問題もなかったが、途中からは雪渓
が消えて何段かの滝もあらわれ、その下降にはかなりの時間を費し
てしまった。
 特にそのうちの一つは、七〜八メートルの段差があるうえ、高巻
き等の逃げ道もなく、岩登りの準備のない我々には到底下降困難と
思われた。
 ところが、我々は幸いにして、その側壁に打たれている下降用の
ハーケンを発見した。
 そのハーケンは二〜三日前に打たれたものと思われたので、安全
を確認したうえ、手持ちのロープを使ってどうにかその難関を突破
することが出来た。
 このルートは残雪時、下り約三時間とされているが、我々は七時
間余りもかかってしまい、その日は予定を変えて真砂沢ロッジに泊
ることを余儀なくされた。

  回を重ねて

 六十二年十月には、剱岳登頂の一般ルート中、最もきついとされ
ている早月尾根を篠宮さんと二人で登った。
 しかし、この尾根は一般に云われている程苦しいものではなく、
案内書等のコースタイムも少しオーバーではないかと感じられた。
ちなみに、登り口の馬場島から旧伝蔵小屋まで七〜八時間となって
いるが、我々二人は四時間半程で登ってしまった。
 このコースでは、途中、伝蔵小屋で一泊お世話になったが、小屋
のあるじ、佐伯伝蔵さんには、池ノ谷の難ルートアタックについて
             (イケノタン)
指導をうけたり、また、夕食時には自ら仕留めた熊の肉をご馳走に
なるなど、心暖まるもてなしをうけた。
 ところが、伝蔵さんはその一週間後に心臓発作で急逝するという
不幸に見舞われ、顔を合わせたばかりの私達にも何とも云えぬ無念
の気持を抱かせた。
 その翌年、昭和六十三年は槍穂方面を歩いたため、剱岳にはご無
沙汰したが、平成元年の八月、近年の山仲間六人と共に二十何度目
かの剱行きを試みた。
 この時は、新田次郎の「点の記」(陸地測量部、柴崎芳太郎一行の剱
岳初登頂の記録)にちなんで、長次郎雪渓左俣から頂上をきわめ、
その後は北方主稜から池ノ平小屋に行ことを予定していた。
 しかし、この山行きでは長次郎雪渓を登った二日目の夜から、予
想もしていなかった台風十七号に直撃されてしまい、翌日は止むな
く北方主稜を断念し、暴風雨の中、一般ルートを経てやっとの思い
で剱御前小屋まで引き返すという羽目になってしまった。
 長次郎雪渓では、今までと同様、他のパーティーに会うこともな
く、快適な気分で登ることが出来たが、この雪渓も回を重ねる毎に
だんだん傾斜がきつくなっているように感じられる。これも年齢の
ためなのあと思うと何とも淋しい思いがする。

  検 証

 いずれにしろ、この山行きは満足度もいまひとつというもので
あったが、途中、かねてから検証してみたいと思っていた長次郎の
コルから北方主稜に登る三つのルートについて実地検分出来たこと
は一つの収穫であった。
 主稜への三つのルートは、いずれも過去何回か通っているが、近
年はいつも同じルートばかり歩くようになり、ほかの二つのルート
がどこであったのか分らなくなってしまっていた。このことは、私
にとって北方主稜を思い浮かべる度に頭を悩ませる程のこだわりと
なっていた。
 この検証によっても、今までのこだわりが完全に解消されたわけ
ではないが、山の自然の厳しさを考える時、岩稜といえどもいつま
でも同じ状態を保っていることは困難であろうと思う。あの場所が
多少昔と変わっていても少しも不思議ではない。
 また、この山行では北方主稜上のルートについても是非検証して
みたいと思っていた。以前は、近年歩いているルートではなく稜線
の最上部に近いところを辿っていたような気がする。
 この検証はあとに持ち越すことになってしまったが、今後はもっ
と山(の)現実の姿を素直にうけとめ、あまりこだわりをもたない山行を
続けてゆきたいと思う。