わが北鎌尾根、剱岳よ おちこちの山   楽山社

第2部 劔岳鑽仰(サンギョウ)
(E872)

   剱 岳
    −−あの日見た不思議な現象
                        原田 祥子


 あれはいつの夏だったろうか。私は1人、後立山連峰を歩いてい
た。
 その時、不思議な剱岳を私は見た。
 帰ってから友人の一人には話したけれど、以後、異常さゆえに思
い出したくなく、私の記憶の奥深くとじ込めて、いつか忘れかけて
いた本当に信じられないような大自然の現象であった。
 あの朝、夜半過ぎてからの天候悪化に、唐松山荘の宿泊客は下山
するらしく、窓から空を眺めては雨ごしらえに忙しかった。
 私はまだ休みがあって、爺が岳あたりまで行くつもりだったので、
ここで決心がつかず、かと言って悪天候の中、山旅を続ける勇気も
なく、この山荘に連泊する気はさらさらなく、ぼんやり周りの様子
を眺めていた。

 やがて、三十人程の宿泊客は、それぞれに八方尾根から下山して
行った。私の同行者もこの日、下山日だったので、適当な方にお願
いして帰途についた。
 ひと時の朝のあわただしさがおさまった頃、私はやっと続行の決
心がついて山荘を出た。
 雷の心配はなかったが、荒れる稜線に人影はなく、あるものはガ
スと風、そしてレインコートにたたきつける雨だった。
 山荘を出てすぐの岩場にいる時、ダッダッダッと近づいて来た足
音は、四・五人の大学ワンゲルパーティーだった。ガスの中から突
然現れ、無言で私を抜いて行って、三メートル程先でもう見えなく
なった。一瞬ホッとしたが、ガスの中で又一人になってしまった。
 山荘を出たばかりなのに「又」とはおかしいけれど、これを書い
ていると、ひとすじの糸をたぐるように大学のパーティーに抜いて
行かれた時の、あの寂漠とした気持がよみがえって来る。
 ガスの中で、私は見えぬ方をふり返って、今なら八方尾根を下山
している同行者に追いつけるとはげしく気迷った。でも気をとりな
おして、岩尾根を越え、歩きだした。

 五竜山荘まで二時間半、私はひたすら次の小屋をめざした。
 晴れていても視界に人影のない山旅は不安を抱いて歩くのに、こ
んな日、大自然の中にとび出して、ガスに包まれ、ずぶ濡れになっ
て、風にあおられながらの登り下りは、アルプスに登り初めてまだ
間もない私にとって、危うい所で精神の均衡を保つのがやっとで
あった。
 風は鳴る。こんな日、一人稜線を行く私を罰するように。
 山荘を出て一時間余りたった頃だったろうか、それまで何も見え
ず、只モクモクと歩いていた私は、いつのまにかガスが上っている
のに気がついた。
 なにげなくあたりを見まわし、重くふたされたような空に目をう
つしていって、一瞬わけが解らず、私は凝視した。
 その時、雲の中に私が見たものは、”魔の山”であった。
 不気味に空を覆う鉛色の雲の、右手遠くの一部分が、ほぼ完全に
近い横長の長方形にぬけていて、その中央にキラキラとキラめく、
まぶしいまでの光に包まれた晴天の剱岳の頂上が(で)あった。

 その時、私はまさに密雲一色の空に掛けられた一枚の額を見たよ
うな気がした。
 額の中の剱岳は私に向かって、”墜としてやるぞ”と不気味に笑っ
ているように見えた。
 悪寒が走った。逃げた。
 逃げながら時々チラッと見ると、いつも私に向かって不気味に
笑っていた。私が気がつく前からじっと見ていたようで、それから
二、三十分くらいは見ないことにして必死で歩いた。
 いくらなんでも、もう消えただろうと思って振り向くと、「絵」
は初めて見た時と全く同じ状態で雲の中にあった。
 その時、私は「絵」から逃れるにはもう無視するしかないと思っ
たので、それからは見るのをやめた。
 「絵」はいつ消えたのか判らない。
 同じ頃、後立山連峰の剱岳が見える稜線を歩いている人がいたら、
きっと雲の中に私と同じ「絵」を見たことであろう。
 考えてみると、密雲の一部分が長方形に抜ける事じたい、本当に
不思議で、何故かと考えていると胸が苦しくなって来る。

 単なる自然現象だったのか・・、それとも、その異常の完璧さゆえ
に何かの意味があったのか、私には何も解らない。
 本当に見た者でなければ、誰も信じてくれないような不思議な現
象であった。
 あの日、私は五竜山荘でしばらく休んだ後、遠見尾根から下山し
た。

  ありがとう、剱岳

 長い年月があって、多くの山を登った。
 あの日の不思議な現象を忘れた頃、私は剱岳に向かうようになっ
た。
 一度、二度と登って、三度目は坪山さんのパーティーに加えてい
ただいて、頂上を越え、北方稜線を池の平まで行った。四度目は今
年の夏、長次郎雪渓から本峰を越えて、平蔵の避難小屋に泊った。
 そして翌日、北方稜線の予定を変え、台風17号が富山を直撃する
強い風雨を衝いて、七人無事、剱御前に着いた。

 私の剱岳に関する想い出は尽きることはない。
 ハイレベルのコースに私を連れて行ってくださる坪山リーダーを
始め、パーティーの全ての方がたにはいつも心から感謝している。
本当に楽しい想い出をつくってくださったのは皆さまなのだから。
 家に帰って来ると山が恋しい・・。
 強風にとばされそうになって岩にしがみついても、山は私を無事、
家に帰してくれる。
 本当に山が恋しい・・。
 剱が恋しい・・。