わが北鎌尾根、剱岳よ おちこちの山   楽山社

(若干の資料)

    T 「立 山」(抜粋)

                         深田 久彌

 立山の賦一首並に短歌(此山は新河郡にあり)

 アマザカ  ヒナ   カ     コシ     クヌチ            シジ
 天離る 鄙に名懸かす 越の国 国内ことごと 山はしも 繁にあれども 川はしも
サハ        スメガミ  ウシハ  イマ   ニヒカハ     タチヤマ   ドコナツ      シ     オ
多に逝けども 皇神の 主宰き坐す 新河の その立山に 常夏に 雪降り頻きて 帯ば
    カ タ カ ヒ              ヨヒ                        ガヨ
せる 可多加比河の 清き瀬に 朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや 在り通ひ いや
トシノハ   ヨソ       サ             カタラ
毎年に 外のみもふり放け見つつ 萬代の 語ひ草と 未だ見ぬ 人にも告げむ 音のみ
             トモ
も 名のみも聞きて 羨しぶるがね
 タチヤマ                         カム
 立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし
 カ タ カ ヒ
 可多加比の河の瀬青く行く水の絶ゆることなく在り通ひ見む

 これは萬葉集巻十七に出てゐる大友家持の歌であって、家持は聖武天皇の天平十八年七
月越中の国守となって赴任したが、翌十九年四月二十七日(陽暦六月十三日)にこれを作
ったのであった。
 萬葉集で日本の高山が詠まれてゐるのは、山部赤人と高橋蟲麿の富士山の歌についで、
大伴家持と大伴池主のこの立山の賦である。萬葉集の中には二千米以上の山は一つも出て
来ないのに、富士山と並んで日本の代表的な名山である三千米を超えた立山が歌はれてゐ
ることは、我等山岳宗徒にとっては大きな誇りである。有名な富士山の歌に劣らず、雄渾
瑰麗な立山の讃歌である。
 この歌の中の「新河」は今の新川郡であり、「加多可比の河」は今の片貝川であろう。
越中の国府は今の伏木町近辺であったさうだから、たまたま家持は国内巡視に出て片貝川
のほとりに立ってこれを詠んだものであらうか。しかしその前日の四月二十六日には自分
の館で宴をしてゐるから、あるひは曾遊を追懐して作ったのかもしれない。
                             ハヒツキ 
 その後になって、かれ家持は同じく新河郡の延槻河を渡る時にも一首を作っている。
 タチヤマ    ク    ハヒツキ    ワタリゼアブミツ
 立山の雪し来らしも延槻の河の渡瀬鉄浸かすも

 歌の意から推して翌年の早春の頃であらうか。この「延槻の河」は今の早月川であらう。
早月川は立山連峯の劔岳西面の水を集大成して北流し、魚津と滑川との間を富山湾に注ぐ
川である。尚さきの片貝川は同じ山系の毛勝、猫又のふところに源を発し、三日市と魚津
の中間でやはり富山湾に入る。
 ところで家持が詠んだ「たちやま」は今の立山であらうか。おそらくそれは今の劔岳で
あったらうと僕は憶測する。片貝川や早月川のほとりから眺めて、先づ我々の眼を牽くの
は断然劔岳であって、立山は後ろに遥か遠くなってしまふ。山の姿が太刀を立てつらねた
やうなさまに見えるから「たちやま」と名づけられた、といふ説を仮に信ずれば、いにし
への立山は今の劔岳を指したものであらう。劔峰如立といふ形容は今の立山主峯には添は 
ない。
 更に、さきに之を略したが、家持の歌に和して大伴池主の作った「立山賦一首並びに二
絶」の中に、「・・・・いにしへゆ 在り来にければ 嚴しかも岩の神さび・・」とあるが、こ
の「嚴しかも岩の神さび」といふ形容は、どうしても現在の立山ではなく、稜々たる岩峯
を簇立した劔岳とした方が適切であらう。古来世人の以て立山と称したのは、今の立山か
或は劔岳か、それには種々の論議があるが、少くとも万葉集に讃へられた「たちやま」だ
けは今の劔岳であると僕は信じるのである。
 なぜさういう論議が起きるか、一たい越中の平地から望むと、立山主峯より劔岳の方が
堂々とした一個の山の風貌を具へてゐる。立山主峯(とこゝで云ふのは、最高点の雄山、
大汝、富士の折立を指す。これらは殆んど高低のない一連らなりの峯と見なしてもいい)
の方はこれに反して独立した山岳といふ感じに乏しい。屹と聳え立つた特徴のある峯頭が
あるわけでもなければ、右左に見事に裾を引いた稜線があるわけでもない。殊に富士あた
りから眺めると、その前方に大日岳が大きく立ちはだかってゐて、立山はその裏蔭に頭を
出してゐるだけなので、土地の人か或は山に委しい人でなければ直ぐにあれが立山だと指
すことはむづかしい。おそらく通り過ぎの旅行者で立山の最高点を的確に認識出来る人は
殆んど居ないのではあるまいか。
 例へば谷文晁の「日本名山図会」中の立山である。この高名な画家は日本各地の山々を
全三冊に亘って描いてゐる。実際に即した忠実な写生のやうではあるが、今の僕の眼から
見ると随分怪しいところが多い。いづれこの有名な図鑑に関しては、他の機会に委しく述
べるつもりでゐるが、取敢へずその中の立山の図に就いてである。
 その図の中で劍峯(劔岳のこと)が断然高く描かれてゐる。しかも嬉しいことには、劔
の三ノ窓、小窓、大窓とおぼしきものまで、とにかく図に現はれてゐる。ところが立山と
なると全く見当違ひで、図に立山を指してあるのはおそらく鍬ヶ崎山に違ひない。図が正
確でないので、はっきりしたことは云へないが、図に刮山(別山の誤りか)とあるのが立
山主峯かと思はれる。つまりそれほど立山は越中の平野から確と認識し難いのだ。文晁の
やうに日本中を旅行して山を眺めることに餘念のなかった画家ですら、立山主峯を見誤っ
てゐたのである。
 だからと云って、僕は古来称せられてきた立山は今の劔岳だと主張するものではない。
いや万葉集の昔は知らず、それ以後立山と称せられてきたものはやはり今の立山のことで
あらう。橘南渓の「東遊記」中の「立山論」は、僕が山のことを書く時よく引用する文で
あるが、それにはかう記してある。
 「山の姿峨ゝとして嶮岨画の如くなるは、越中立山の劍峯に勝さるものなし。立山は登
る事十八里、かの国の人は富士より高しと云へり、然れども越中に入りて初めて立山を望
むに、甚だ高きを覚えず、数回見て漸くに高きを知る。是は連峰参差たる故なり。最も高
く聳え、互に相爭ふ程なる峰五つあり。劔峰も其の一なり。その外にも甚だ多く連なり波
濤の如く連なる。皆立山なり。この故に之を例へば都の北山を望むが如く、遠くより見る
に何れを鞍馬と称し難きが如し。云々。」
 これはまことに妥当な説で、山の詮索に熱心な登山家だけが、あれは立山、あれは別山、
あれは劔、といふ風に区別して指すが、一般の人々はこれらを引つくるめ、この一連の山
を眺めて立山と呼んでゐたのであろう。それにしても、僕は劔岳だけはこの一連の立山か
ら離して、一個の独立した名前を与へたい気がする。
 立山は「たちやま」であり、それは太刀を並べ立てた如き山容から来てゐるという説と
は別に、木暮理太郎氏は次のように解して居られる。
「タチは倭人と同族であるサカイ族の語で、立チ上ル又は起キ上ルを意味するテツッから
出たもので、ヤカタの館又はタテであるから、立山即ち館山は主宰く神の坐ます、その館
である山ということである。」
 この解釈からすれば、古への館山は劔岳ではなく今の館山主峰に間違ひないことになる。
と云ふのは、主宰く神の社は主峰の雄山に鎮座ましますからだ。
 この頃こんなことを云ひ出すと甚だ時代錯誤に聞えるが、まだ戦争中の昭和十五年(一
九四〇年)の秋、新聞に出てゐた小さな記事が僕の眼を惹いた。紀元二千六百年の佳節を
トして、畏きあたりでは、五つの縣社を国弊社に昇格あらせられる旨仰せ出された、とい
ふのであるがその五つの縣社のうち二つまでが、山の神様であったからだ。即ち穂高神社
と雄山神社。そしてこの雄山神社こそ立山の絶頂にその本社があるのである。日本最高の
地に位置する神社であらう。(富士山の山頂にも浅間神社が鎮座するが、その本社は麓の
大宮にある。)
 雄山神社の由緒は古い。その開基に就ては種々の説があつて何れとも信じ難いが、「三
代実録」に、「清和天皇貞観五年五月甲寅正五位下なる雄山神に正五位上を授けられ」た
といふ記録がある。今から千百年も前のことである。この雄山神といふのが立山の神様で
ある。
 木暮理太郎氏の本によると、立山を雄山神と崇めたのは、昔から立山は加賀の白山と並
び称せられ、白山の山容が優美なので比盗_と崇めたのに対し、立山は山勢が雄偉なとこ
ろから雄山神としたといふことである。上代では山そのものを神と見なして崇敬したが、
時代が経つにつれて、その山に何か形態的な崇敬物の必要を感じて、社を建つるに到った
のであらう。
 白山は養老元年(西暦七一七年)に僧泰澄によって開かれたといふことになってゐるが、
おそらく立山もそれと同じ頃誰か或る傑僧によって初登攀されたのに違ひない。伝説では
大寶元年(西暦七○一年)佐伯有若が越中守として下向した時、その嫡子の有頼が白鷹の
行衞を追ふて遂に立山の峰に立ったと云はれてゐる。この佐伯有頼はのち戒を受けて慈興
と改め、立山権現を建立した、と社記には伝へられている。
 いづれにせよ立山が初めて登攀された頃には、仏教が興隆してきて、古への雄山神が神
仏混淆の思想の影響を受けて立山権現となり、立山も甚だ仏教臭くなった。今残ってゐる
仏教に因んだ名前は皆その名残りである。その状態が明治三年の神仏分離に至るまで続い
た。
 いま立山山麓の岩峅寺には前立社壇があり、芦峅寺には雄山神社祈願殿があるが、これ
が嘗て神仏混淆時代には、前者は立山寺、後者は仲宮寺と称して、その勢は盛大であった。
 立山権現の奉祀者はこの両寺の僧侶であって、何れも天台宗に属して別当と唱へ、両寺
各二十四坊あったといふことである。そしてこれらの僧侶が登山者の指導に任じ、立山権
現の功を迷信混じりに説いたのであった。
 立山の登山鉄道が藤橋近くまで延びた今日、誰も岩峅寺や芦峅寺には眼もくれなくなっ
たが、昔の登山者は先づ岩峅寺芦峅寺に参拜し、こゝを経て立山に向ったのである。殊に
芦峅寺は登山の根拠地のやうな位置を占めて、現在でも立山の名ガイドは大ていここの出
身である。そして有名な佐伯平蔵を始め佐伯姓を名乗る者が甚だ多いが、立山の初登攀者
が佐伯有頼と伝へられてゐるのと思ひ合はせて、立山と佐伯姓の因縁浅からざるものを感
じるのである。